この成長曲線は、5年後の理想につながるか?──新プロダクト・組織再編・M&Aまで、SaaS戦略をSmartHR倉橋・マネーフォワード山田が語り合う

インタビュイー
山田 一也

2006年に公認会計士試験に合格し監査法人トーマツに入所。その後、株式会社パンカクにて執行役員CFO、株式会社Bridgeにて執行役員ベンチャーサポート事業担当を経て、2014年に当社入社。社長室長、『マネーフォワード クラウド』開発本部長を経て、現在はビジネスカンパニーCSOとして戦略全体を統括。

倉橋 隆文

2008年、外資系コンサルティングファームであるマッキンゼー&カンパニーに入社し、大手クライアントの経営課題解決に従事。その後、ハーバード・ビジネススクールにてMBAを取得。2012年より楽天株式会社にて社長室や海外子会社社長を務め、事業成長を推進。2017年、SmartHRに参画し2018年1月、現職に就任。

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日本のSaaS市場は、ついに1兆円を優に超える大きな規模(富士キメラ総研調べ)となり、社会的認知度は着実に高まりつつある。様々な領域で大小様々なSaaSが続々と誕生し、目覚ましい成長を遂げている。しかし、この勢いが今後も持続するのか、疑問を抱く読者もいるかもしれない。

国内のSaaS業界を牽引してきたBtoB SaaSスタートアップの代表格、マネーフォワードとSmartHR。この2社のSaaSプロダクトはそれぞれ約10年の歴史があるが、直近のARR成長率はマネーフォワードが40%(2024年11月期第1四半期決算説明会資料より)、SmartHRは約50%(2024年2月時点の実績、プレスリリースより)と、今なお目覚ましい成長を続けている。

SaaS企業にとって、プロダクトを最重要視する点は共通しているものの、開発の方向性や市場へのアプローチには大きな違いがある。マネーフォワードは早い段階からマルチプロダクト戦略を展開してきたのに対し、SmartHRは最近までワンプロダクトに注力してきた。また、マネーフォワードは積極的なM&Aで事業領域を拡大してきた一方、SmartHRはM&Aには慎重で、一つの市場を徹底的に深耕してきたのだ。

本記事では、両社の戦略面を牽引する2人のキーパーソンが「国内SaaSスタートアップの現在地と伸びしろ」をテーマに、それぞれの事業・組織戦略について赤裸々に語り合った。率直な意見交換を通じて、両社の共通点や相違点だけでなく、互いの強みや特徴が浮き彫りになっていく。終始白熱した議論が交わされたこの対談から、SaaS業界の未来を占う数々の示唆が読み取れるはずだ。

  • TEXT BY MAAYA OCHIAI
  • PHOTO BY SHINICHIRO FUJITA
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SaaSスタートアップの戦略を司る2人が考える「戦略」のあり方

国内のSaaS業界をリードする2社、マネーフォワードとSmartHR。この両社の戦略を担うキーパーソンである、マネーフォワードビジネスカンパニーCSO山田一也氏と、SmartHR取締役COO倉橋隆文氏に、まずは「戦略」という言葉の定義と位置づけを聞いた。

山田氏

山田私は戦略を、「やるべきではないことを定義するためのフレームワーク」と捉えています。やるべきこと、やりたいことは無限に発散させていいと思っていて、逆に「これは絶対やらない」ことは明確に決める。要は「捨てるものは何か」を決めるフレームワークとして戦略があると位置付けています。

倉橋「戦略は何をするかではなく何をしないかだ」という言葉は私も好きですね。ビジネスのアウトカムは戦略と実行の掛け算で決まります。だから戦略だけ本社に閉じこもって考えても良い戦略にはならない。実行を担う組織が、どこまで急拡大に耐えられるのか、この領域はちょっと無理しても大丈夫そう、みたいに現場を見て把握したうえで戦略を立てなければならないと思います。「アウトカムを最大化する」という考え方をベースにすることが重要です。

倉橋氏

SaaSスタートアップの成長戦略において、事業と組織の両面から最適解を導き出すことの難しさがうかがえる一幕である。マネーフォワードとSmartHRはともに急成長を続けてきたが、その背景にはこのような戦略論があったのだ。

両社はSaaSという共通項を持ちつつも、戦略面ではいくつかの興味深い違いを見せている。この対談では、そうした両社の戦略の共通点と相違点を、事業面と組織面に分けて議論していく。早速、2人の白熱した議論の様子を追っていこう。

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プロダクト開発、同質化を先行させたマネーフォワード、差別化を先行させたSmartHR

SaaSスタートアップにおいて、プロダクト戦略は極めて重要な要素だ。急成長を続けるマネーフォワードとSmartHRだが、実はプロダクト開発のアプローチには興味深い違いがある。その点について、マネーフォワードの山田氏から話を切り出した。

山田SmartHRさんとマネーフォワードは急成長を続けるSaaS企業だと言われますが、その戦略は比較的対極にあるなと思うんですよね。例えば、SmartHRさんはワンプロダクトで突き抜けていき、かつ労務管理システムという「当時、まだ存在しなかったマーケット」をつくって成長されてきた。それに対してマネーフォワードは、会計システムという「すでに存在するマーケット」にマルチプロダクトで新たな開拓をしていきました。この違いによって、苦労したポイントも違うんだろうなと思っているんです。

個人的な仮説としては、SaaS企業なので、まずはプロダクトが何より重要。この点は共通していると思います。ただ、そのプロダクトのつくり方や、市場に対するアプローチが大きく違うのではないかと考えているんです。

マネーフォワードが狙う市場は、既に競合がいるので、とにかくまずはリプレイスしていくパターン。そのため差別化は重要な一方で、同質化も非常に重要なんですよ。最低限の機能は同質化しておかないとそもそもコンペにならないですし、結果として満足してもらえるようなUXを提供することができない。

だから「何を差別化するか」よりも、まずは「何を同質化して、何は同質化しないか」を意識したプロダクトマネジメントを進めてきました。

倉橋氏は、山田氏の指摘に同意しつつ、SmartHRのアプローチについて補足した。

倉橋プロダクトの立ち上げ方には確かに違いがありますね。弊社は常に「何を差別化するか」だけを追求してきましたから。

特に労務管理システムは市場がほぼなかったですし、タレントマネジメントもそれほど既存のプレイヤーがいるわけではありませんでした。ほとんどの場合、リプレイスではなく新規導入なので、いかにプロダクトに価値をつけて売っていくのかを議論していました。差別化ドリブンでのプロダクト開発ですね。私たちから見れば、同質化の議論があるということがとても面白い観点です。

山田差別化は重要だと思われていますが、特に業務アプリケーションの場合、お客様は差別化よりも最低限の要件を満たしていることを求める局面が多いんです。その意味では、お客様の声を聞くことと同じくらい、競合他社から学ぶことも大切だったように思います。

倉橋弊社は、競合他社というリファレンスがあまりない領域に今まで出てきたので、要件定義のときにもお客様と話すことがほとんどですね。もちろん社内の人事担当者にも聞きに行きます。実務者の方々に聞きながら、そこで得た仮説を具体化していく形で、手探りで開発を行っていったのは弊社の特徴なのかもしれませんね。

「バックオフィスSaaS」という大括りでは共通項を持ちつつも、立ち上げ期のプロダクト開発には、市場環境の違いに起因する興味深いアプローチの違いがあったようだ。会話を重ねるうちに、二人の見解の相違点と接点が徐々に明らかになってきた。

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マーケティングにおいては差別化重視。
独自のバリュープロポジションを確立

プロダクト開発の方針について白熱した議論を交わした二人が、次にフォーカスしたのはマーケティング戦略だ。市場の成熟度が異なる中で、それぞれどのようなアプローチで市場開拓を進めてきたのだろうか。ここでも両社の戦略の違いが浮き彫りになった。

取材内容を基にFastGrowにて作成

山田マネーフォワードの場合、参入した市場には既にライバル企業が存在していたので、マーケティングでは差別化を強く意識しました。一方でSmartHRさんは、市場そのものを創出していくフェーズだったと思うのですが、また違ったマーケティング手法を取られたのではないですか?

倉橋労務管理の領域に関しては、まさにゼロからの市場創造が求められました。ある程度市場が立ち上がり、競合他社が出始めたタイミングで、本格的なマーケティング施策を展開することで、労務管理システムのカテゴリーにおけるポジションを確立していった感じですね。

山田なるほど。弊社の場合は、バリュープロポジションを常に意識してきました。オンプレミス型とクラウド型、両方のタイプの競合がいる状況だったので、双方に対する差別化ポイントを訴求する必要があって……。そこは相当苦心しました。マネーフォワードの「コンポーネント型ERP戦略」が生まれた背景にも、そうした事情があるんです。

マネーフォワード2024年11月期第1四半期決算説明資料から

2020年に提供スタートした成長企業・中堅企業向けクラウド型ERP『マネーフォワード クラウドERP』は、顧客の課題感に合わせて『マネーフォワードクラウド』の個別プロダクトからの導入が可能で、将来的には他プロダクトと組み合わせることで、より利便性の高い活用も可能。

このように必要に応じて導入するプロダクトを調整できるソリューション提供をマネーフォワードは「コンポーネント型ERP戦略」と称し展開している。

倉橋どのような思考を経て、コンポーネント型ERP戦略に至ったんですか?

山田ERPという呼称で利用が広がっていたソフトウェアは、統合一体型のイメージが強かったんですよ。でもその形を取り入れてしまうと、クラウドサービスとしてのSaaSのメリットを活かし切れず、もったいないと考えたんです。

お客様へのヒアリングを重ねる中でも、「必要な時に必要な機能だけを使いたい」というニーズの強さを感じていたので、それならコンポーネント型のERPという全く新しい形のソフトウェアにできないかと考え、戦略として打ち出したんです。

倉橋私たちも似たような問題意識を持っています。システム導入の選択肢として、オールインワン型とベストオブブリード型(専門特化型)の2軸があるとも表現されますよね。このどちらが良いか、企業によっても時期によっても最適解は変わってくる。どちらかに極端に傾くのではなく、常にバランスを考えるのが大切だと思っています。

取材内容などを基にFastGrowにて作成

倉橋SaaSも黎明期はベストオブブリードで、徐々にオールインワンへと要望が変化してきていると感じます。とはいえ完全にオールインワンに倒し切ると柔軟性がなくなったり最新テクノロジーを活用しきれなかったりして、結局お客様にとっての価値にならないことがあるので。これは会社によってもタイミングによっても揺れ動くと思います。

弊社は労務管理にタレントマネジメントもつなぐことで、少しだけオールインワンに近づきましたが、完全に振り切ることはないでしょう。今後も自社プロダクトの開発と、パートナー企業との連携で組み合わせられるモジュールを増やしていく世界観を目指していきたいと思っています。

山田揺れ動くというところは本当にその通りですね。弊社も「まずはワンプロダクトだけ使ってください」という形で、企業が導入する数ある業務アプリケーションのうち少数をマネーフォワードのプロダクトが取る形で展開してきました。

最近では7〜8割がマネーフォワード製品で占められるお客様も増えてきた。もちろん最初からオールインワンまではいかないのですが、1プロダクトだけの導入でもないといった世界観ができてきています。

こうしたプロダクトの進化を支えたマーケティング投資について、二人は時流の後押しがあったと振り返る。

倉橋数年前はSaaS市況の良さもあって、マーケティングに思い切った投資をできたのが大きかったですね。黎明期だからこそ許された面もありましたが、結果的に市場の底上げにもつながったのかなと。

山田我々もかなりの赤字を許容してもらえたおかげで、施策に十分なリソースを割くことができました。日本でSaaSが根付いた背景には、そうした環境があったと感じています。今はスタートアップを取り巻く状況も変わってきているので、これからSaaSで勝負する企業は、いかに創意工夫で乗り越えていけるかが問われるでしょうね。

両社のマーケティング戦略には、市場の成熟度の違いを反映した興味深い対比が見られた。競合との差別化を巧みに打ち出すマネーフォワードと、市場そのものを創造していくフェーズのSmartHR。一方で、SaaS業界の隆盛を追い風に、両社ともに思い切ったマーケティング投資を行ってきたことが共通点として浮かび上がったようだ。

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新規プロダクトに着手するタイミングをどう見極めるか?

次に山田氏が、SaaS企業が持続的な成長を実現するための鍵として、「2プロダクト目」の重要性について提起した。

山田成長を続けるSaaS企業に共通しているのは、必ず二つ以上のプロダクトをヒットさせているということです。日本の市場規模を考えると、1プロダクトだけでARR1,000億円を超えるのは難しい。2プロダクト目を成功させられるかどうかが、SaaS企業の成長において不可欠な要素なんです。

倉橋そのとおりですね。新しいプロダクトを自社開発するのか、別会社を設立してチャレンジするのか、はたまた他社とのM&Aを選ぶのか。どの道を選ぶにせよ、常に考え続けなければならない課題だと思います。

山田他社の経営者からもよく相談されるんですよ。「今は1プロダクトに注力した方がいいのか、それともリソースが分散してしまうリスクを取ってでも、二つ目のプロダクトに着手すべきなのか」と。倉橋さんならどうアドバイスされますか?

倉橋個人的な意見ですが、ワンプロダクトで伸び続けられるなら、そのまま突き抜けた方がいいとは思います。山田さんがおっしゃったようにワンプロダクトで伸び続けられる市場が日本にはないので、どこかでカーブの傾きが緩やかになり始めると思います。それが見えたら、2本目の矢を仕込むという流れがいいのではないでしょうか。

弊社がまさにそうで。労務管理SaaSとしては絶好調だったのですが、5年後の成長曲線をシミュレーションしてみると、目標とするカーブから乖離が生じ始めると予見できたんです。そこで新規プロダクトの開発を急ごうと決断しました。

山田5年後の成長曲線を描いて逆算した時に、現状のカーブとの乖離を感じ取ったということですね。

倉橋そのとおりです。現状の成長カーブ自体は悪くないけれど、目指している曲線にはならないと感じたので。一方で、マネーフォワードさんは新規プロダクトに取り組むスピードが驚くほど速い。次々と新たな領域に進出されていますよね。

山田新規プロダクトへの投資が早すぎるのか、タイミングが適切なのかは、常に議論になるところです。ただ弊社でも、5年先の成長率を逆算して判断しています。

これまではARR100億円を超えた後も、年40%以上の成長率を維持できるかどうかがSaaS企業の評価を分けるポイントでしたよね。

そういう会社をつくるために、今のプロダクトの伸びしろと、将来の成長率の乖離を定量的に予測しているんです。新規プロダクトが会社全体の業績に目に見えるインパクトを与えるまでには5年ほどかかると見込んでいるので、5年単位でプランニングするようにしています。

続いて、事業拡大の方法論について議論は白熱していく。両社の違いが際立ったのは、M&Aの活用度合いだ。マネーフォワードは早い段階からM&Aを戦略的に取り入れてきた一方、SmartHRはこれまで積極的に展開してこなかった。今後M&Aにも注力していく方針のSmartHR・倉橋氏が、山田氏に質問を投げかける。

公開情報などを基にFastGrowにて作成

倉橋マネーフォワードさんは、M&Aによる事業ポートフォリオの拡大をうまく実践されていますよね。弊社も今後はM&Aを加速したいと考えているのですが、これほど頻繁にM&Aを実行するコツのようなものはありますか?

山田実は、ベースとしては「グループジョイン」ではなく「まずは自前でつくろう」なんですよ。目指す世界観を踏まえて、まずは自分たちでつくろうと取り組む。それを実現するために自社でプロダクト開発に挑戦する。その過程でリサーチを重ねた結果、良いサービスに出会えたらアライアンスやM&Aも視野に入れるという順番ですね。実際にM&Aまで至るかどうかは、カルチャーの親和性や経営陣の相性など、定性的な要素が大きいです。

一方でSmartHRさんも、次の成長ドライバーを模索する中で、労務管理とは直接関係のない領域にもチャレンジされていると思います。「近接領域」と「非連続な新規事業(飛び地)」のどちらを選ぶのか。社内ではどんな議論が交わされているのでしょうか?

倉橋中長期的な事業成長と、従業員のチャレンジ機会の創出を目的に、3~4年前にほぼ同時期に4つのグループ会社を設立したことがあります。あえて別会社にしたのは、私たちの原体験である「ゼロからの新市場の開拓」をもう一度やり抜きたかったというのもあったからなんです。

0→1をつくるときは、既存の『SmartHR』の組織文化やオペレーションがかえって制約になるケースもある。だからこそ、資本と目標は共有しつつも、やり方は全面的に任せるというスタンスで臨むことにしました。

一方でタレントマネジメント領域については、労務管理と親和性が高く、『SmartHR』本体とのシナジーも見込めたので内製化を選択しました。市場の成熟度と既存事業との関連性を軸に、外部化するか内部化するかを判断していますね。おかげさまでタレントマネジメント事業は順調に立ち上がっています。

山田組織のオペレーションを変えずに新規事業に取り組むのは、なかなか難しいですよね。マネーフォワードも『Admina(アドミナ)』という情報システム部門向けのSaaSは、完全に飛び地だったのですが、これから市場が立ち上がると予見して、あえてグループ会社として運営することにしました。ただ、新規プロダクトであっても、親和性の高い場合はマネーフォワード本体の既存事業とマージして展開しているケースもあるので、使い分けが大事だなと思いますね。

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事業立ち上げはまず熱量。ロジカルとエモーショナルのハイブリッドで意思決定する

新規事業の立ち上げにおいて、どのようなタイミングで踏み切るべきか。当初からマルチプロダクト戦略を展開してきたマネーフォワードと、近年までワンプロダクトで成長を遂げてきたSmartHRでは、判断基準に違いがあるのだろうか。SmartHRも近年マルチプロダクトの展開へとシフトしつつある中で、倉橋氏はマネーフォワードの考え方を山田氏に問いかけた。

倉橋企業の歴史を紐解くと、事業の多角化を進めすぎて命取りになったケースもあれば、逆に既存事業に固執しすぎたがゆえに、時代の変化に乗り遅れて衰退したパターンもありますよね。新規プロダクトへの投資判断は、私にとって永遠の悩みどころなのですが、マネーフォワードさんの意思決定で重視している考え方はありますか?

山田正直言って、これは難しい問題ですよね。答えのない世界だと思います。

結局、ロジカルに「このタイミングだ」という公式はなくて、その時々の組織のケイパビリティにかかっているのかなと。ただマネーフォワードで新規事業やプロダクトに着手する際に大切にしているのは「熱量」なんです。ある領域の課題解決に強い思いを抱いている人が現れたら、そのモチベーションを何より尊重したい。新事業のアイデアが生まれて、めちゃくちゃやりたがっている人がいるなら、会社全体としては既存事業に注力したい局面でも、なんとかリソースを捻出してサポートするのがマネジメントの役目だと考えています。

倉橋熱量を大事にされるんですね。ちょっと意外でした。

山田私個人としては、割とロジカルに判断したいタイプなんですが、特に辻さん(マネーフォワードCEO)はそういう感覚を非常に大事にしているんです。だから時々、私からすると「今やるタイミングなのかな?」と思うこともありました。でも、経営者や事業責任者の感覚って、熱量とかエモーショナルな部分に大きく影響されるので、そこにはいつも注意を払っています。ロジカルな思考と、エモーショナルな想いのハイブリッドがうまく機能しないと、良いプロダクトは生まれないと思うんです。

倉橋わかります。スタートアップの面白さでもあるのが「想いがあれば正解にできる」ということですよね。

山田規模が大きくなるほど、物事をロジカルに考えすぎてしまう場面が増えていくんですよね。上場企業としての責任もあるので、ロジカルな判断を重視する部分はありますが、最終的な意思決定では直感を信じる勇気も必要だと思っています。もちろん、情熱や思いを言い訳にして、深く考えるのを避けてはダメです。論理的に考え抜いた上で、熱量をぶつけ合う。そうしたプロセスを経ることで、より良い意思決定に繋がるはずです。

倉橋最近は戦略論について学べる機会が溢れているので、皆そう大差ないレベルにいるんですよ。そこから抜きん出るためには、ロジックを超えた情熱や勘みたいなものが物を言う。「これから世の中はこう変わるに違いない。だからいま手を打っておけば、そのうちチャンスが巡ってくるはず」とか、「現時点では目に見える成果はなくても、あの方向に進んでおくべきだ」みたいな未来予測力が、勝負を分けるんじゃないでしょうか。

山田氏の言葉に、倉橋氏が「わかります」と何度もうなずく場面が印象的だった。事業立ち上げの難しさを身をもって体感している2人だからこそ、ロジカルな判断の先にある情熱の重要性を、経験に基づいて語ることができるのだろう。データと論理に加えて、リーダーの熱量と直感がうまく調和することで、新規事業が力強く軌道に乗るのかもしれない。

両社とも新規プロダクトの開発に余念がない。マネーフォワードのマルチプロダクト戦略と、SmartHRの新市場開拓。一見異なる道のりに見えて、実は思いの強さと冷静な判断力を併せ持つ経営の本質は共通していたのだ。

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社長交代を経てSmartHRに形成されたサクセッションプランニングの視点

ここから話題は事業面から組織面へと移行する。

スタートアップの初期段階では、社長が事業と組織の全てを見渡すことが多いが、成長に伴って権限を委譲していく必要性が出てくる。しかし、いつ、誰に譲るべきかという判断は、どの企業にとっても悩ましい課題だ。他社の経営陣からもこの問題について相談を受けることが多いという山田氏は、CEO交代を経験したSmartHRの倉橋氏に、サクセッションプランについて尋ねた。

創業代表が社長(CEO)の立ち位置を交代した、主なベンチャー企業・スタートアップの例(抜粋、敬称略、交代年順)

  • ライフネット生命
    2013年に出口治明から岩瀬大輔に交代
  • エス・エム・エス
    2013年に諸藤周平から後藤夏樹に交代
  • ミクシィ
    2013年に笠原健治から朝倉祐介に交代
  • Gunosy
    2018年に福島良典から竹谷祐哉に交代
  • イタンジ
    2018年に伊藤嘉盛から野口真平に交代
  • ココナラ
    2020年に南章行から鈴木歩に交代
  • ユーグレナ
    2021年に出雲充から永田暁彦に交代
  • Macbee Planet
    2021年に小嶋雄介から千葉知裕に交代
  • ゲームエイト
    2022年に西尾健太郎から沢村俊介に交代
  • SmartHR
    2022年に宮田昇始から芹澤雅人に交代
  • スローガン
    2023年に伊藤豊から仁平理斗に交代

※FastGrowでのまとめ

山田権限移譲において重要なのは、スキルセットももちろんですが、何より熱量だと思うんです。その事業を立ち上げた創業者と同じくらいの情熱を、次期リーダーが持ち合わせているかどうか。そういう人材が見つかれば、その人こそ本当に譲るべき相手ですし、その時が権限委譲のベストタイミングだと考えています。

SmartHRさんも実際に社長交代を経験されましたよね。スタートアップ経営陣のサクセッションについて、どのように考えるべきか。これは他の企業も気になっているポイントだと思うんですが。

倉橋社長交代は、創業者の宮田から「もう自分が社長を交代する時期だと思う」という提案があったことがきっかけでした。宮田はもう少しアーリーフェーズの事業にチャレンジしたいという想いが強くて。

そこから何ヶ月もかけて経営陣で真剣に議論を重ねた結果、現社長の芹澤にバトンタッチすることを決断したんです。一連のプロセスを経験し、社外取締役から改めてサクセッションプランニングの重要性を説かれてから、私も具体的に考えるようになりましたね。

山田場合によってはかなり大胆な改革も必要になりそうですが、マネジメント層の交代において、タイミングと後任者選定の基準はどのように設定されているんですか?

倉橋私の場合、二つの観点で検討や施策を具体的に進めています。一つは条件設定です。例えば「グローバル展開を本格化させるフェーズでは、こういうタイプの人材にシフトした方がいい」とか、「たとえばホールディングス制に移行することになったとしたら、『SmartHR』のCOO・事業責任者はこの人に託そう」など、様々なシナリオを想定してあらかじめ基準を明確にしておく。

もう一つは、タレント育成です。弊社は今年から「タレント会議」を設けて後継者の育成に注力しています。将来を考えたこの取り組みは、やっていて気持ちいいんですよね。今活躍している人の「ここがすごくて、ここは伸びしろで、今後このように伸ばしていく」という話をしたり聞いたりすると、嬉しくなります。これは長い時間を投資しても報われる仕事ですし、当然中長期的に会社のためにもなる。最近の中でも特に始めて良かった取り組みですね。

山田難しいのは、ヒトの成長スピードと、会社や事業の成長スピードがマッチしないケースですよね。事業の進化に合わせて、次期リーダーの育成プランも常にアップデートし続けないと、うまく噛み合わなくなってしまう。

倉橋そうですね。会社の急成長に伴って、リーダーの望ましい要件もどんどん高度になっていく。これは自分自身にも突きつけられる課題です。組織の成長に自分の成長が追いつかなければ、早晩、賞味期限が来てしまう。そのプレッシャーと常に向き合わなければならない。

山田本当に必死ですよね。去年と同じことを今年もしていたらまずいなという不安感はめちゃくちゃあります。

倉橋ちなみに今、私自身がすごくプレッシャーを感じています。というのも、CEOもCFOも代わって(取締役CFOが20232年1月、玉木諒氏から森雄志氏に交代)、社内のSlackで「次に代わるのは倉橋さんですね」と無邪気に書かれちゃって(笑)。

山田(笑)。

倉橋大事なのは、過去の自分と比べて、何かしらの側面で視野や守備範囲が広がっているかだと思います。思考の時間軸で言えば、以前は半年先くらいしか考えていなかったのが、3年先、5年先を見据えられるようになり、今では7年後くらいまで構想できるようになった。ビジネス領域でも、昔は労務管理のことしか頭になかったのが、今ではタレントマネジメントはもちろん、それ以外の分野についてもアンテナを張るようになった。

自分自身の役割が変われば、権限委譲も進むので、チームの仕事も変わる。そうやって組織全体に成長のチャンスを波及させられる。プレッシャーは大きいけれど、いい面も大きいですよね。

急成長する組織の要となるリーダーには、常に自己変革が求められる。会社の成長に合わせて絶えず視座を高め、責任領域を広げていく必要がある。それは自らに課されたミッションであると同時に、周囲を牽引していくためのカギでもあるのだろう。先の読めない不確実な時代だからこそ、サクセッションプランニングの重要性は増していくに違いない。

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半期に1回の高頻度で組織再編を行うマネーフォワードに学ぶ変化に強い組織のつくり方

SmartHRでは従業員数が1,100名を超え、最近大規模な組織再編を断行した。改革へのモメンタムが高まる中、グループ全体で2,000名以上の組織を率いるマネーフォワードのマネジメント手法に、倉橋氏は強い関心を寄せている。

倉橋弊社では今年初めて事業本部制を導入しました。これまでは複数の職種を横断的に管掌していたのは私1人だったんですが、二つの事業本部を設置し、それぞれに事業本部長を任命することで、日常のオペレーションは委ねられるようになった。同時に、他のメンバーにも新しいチャレンジの機会が生まれました。マネーフォワードさんは、こうした大組織のマネジメントをどのように行っているのでしょうか?

山田現在、グループ全体で2,000人を超えて、その中でもBtoB SaaS事業を担うビジネスカンパニーには1,000人以上が在籍しています。組織編成については、事業戦略の達成に最適な構造を、毎回ゼロベースで考えるようにしていますね。基本的に半年〜1年に1回のペースで、大がかりな組織再編を実施しています。

倉橋そんなに高頻度で行うんですね。

山田そうですね。既存の組織を前提にして「何を変えるか?」となると、思考が限定的になり、視野が狭まってしまいます。何も前提のない状態で、そのときのマーケット環境や、新たに採用できたメンバーを見渡して、今のケイパビリティを踏まえて、最適な組織構造を考えています。

これを習慣的に行う副次的効果として、今の我々の課題が何で、それに対して経営層がどういう優先順位で考えているのかがクリアになりやすいというメリットがあります。

山田氏の言葉を解釈すると、こういう意味合いになるだろう。仮に、ある組織編成を採用することで、目下の課題Aは解消できるが、新たに課題Bが浮上するとしよう。それでもあえてその体制を選択するのは、課題Bよりも課題Aの解決を優先したいからだ。つまり「今はとにかく課題Aに注力する」という経営判断が、組織全体に明示されるわけだ。そして課題Aが片付き始め、相対的に課題Bの重要度が増してきたタイミングで、再び組織の在り方を変えていく。マネーフォワードは、先々の変化までを織り込んだ動的な組織設計を実践しているのだ。

山田課題Aへの対応が一段落して、次のステージに移行できるのは恐らく3年後くらい。だからそこを見据えて、次のフェーズで必要となるケイパビリティを持った人材を、今から採用しておかなければならない。経営会議では定期的に、数年後にどんな組織像を目指すかを議論しているんです。そうすることで、戦略や人事、様々な側面で認識のズレを防げる。組織づくりにおいて、言語化して合意形成することの意義は本当に大きいですね。

一方で、組織の拡大局面における両社の悩みどころは共通している。スピード感を保ちつつ、全体の整合性をいかに担保するか。そのバランス感覚が問われるのだ。

倉橋弊社もかなりの大所帯になってきて、一つのチームだけで仕事が完結することはほぼなくなり、常に他チームとコラボレーションする必要が生まれてきました。人員とチーム数の増加に伴って、コミュニケーションのパイプも複雑になり、情報がどんどん錯綜していく。最近は、これまでアドホックに引いていた連絡線の「交通整理」にも注力し始めました。とはいえ、管理しすぎると官僚的な組織に陥って機動力を失うので、スピードと整備のバランスには細心の注意を払っています。

山田確かにその塩梅が難しいんですよね。マネーフォワードのカルチャーとして「スピード」を掲げているので、俊敏性を損なわないよう、ルールづくりはなるべく避けるスタンスできました。だからちょくちょく小さな事故は起きるんですが、取り返しのつかない大事故だけは防ぐ、いわば「幹線道路」だけは整備しておこうと。最適解はまだ手探りですが。

倉橋急成長しているときって常に課題が複数あるので、その中からどれに取り組むのか、どこまで手を付けるのか、逆にどこはあえて放置するのか、組織のキャパシティと勘案しながらの経営判断そのものですよね。

山田弊社はミッションドリブンで、目指す世界を実現するのに必要な人数を考えれば、まだ全然足りないよねというのが前提にあります。事業を見ている身からすると、志を共にする仲間は多ければ多いほど心強い。とはいえ現実問題として、上場企業の責務もあるので、様々な制約条件とのバランスを取りながら、最適解を模索し続けるしかない。ただマネジメント層としては、どれだけ人が増えても組織が壊れないだけの基盤づくりだけは、しっかりとやっておきたいですね。

倉橋弊社は最近「スケールアップ企業*」を標榜するようになりました。私たちの理想の未来を実現するには、今の10倍、100倍の規模に成長する必要があるんです。だからこそ、スケーラビリティを担保する事業の仕組みや、組織の在り方について、真剣に議論しています。

本当に、やりたいことって際限なく湧いてきますよね。弊社には「心のバックログ」なんて言葉もあるんですが、時間が経てば経つほど、やりたい施策はむしろ増える一方。それをどんどん形にしていけるだけの組織力を付けたいと思っています。

*……FastGrowの解説記事や、SmartHR代表芹澤氏のnoteを参照

山田人が増えていくと、生産性向上で得られるベネフィットの絶対値が大きくなるというメリットも圧倒的に高まりますね。100人のときに1%生産性を改善するのと、1,000人のときに1%生産性を改善するのでは10倍効果が違うのです。弊社はかなりの人数になってきたので、生産性を高めるための投資も強く意識するようになりました。

一方で、利益を出すために生産性を上げるとなると組織が硬直化して、スタートアップらしさを失ってしまう。あくまで事業サイドとしては、「より早いスピードで高い付加価値をお客様に届けるために、同じ人数でトップラインをどれだけ伸ばせるか」が議論の中心ではあります。

倉橋今のご発言にマネーフォワードさんの経営思想を垣間見た気がしました。効率化は、コストカットというよりもさらなる高みを目指すために行うというのはいい考え方ですね。確かに、オペレーションがどんどん洗練されていけば生産性が上がっていくものの、練り上げられたオペレーションは動かしづらくなるので、いざ変化しようとするときに、強い胆力が要ります。

事業構造をガラッと変えたり、今後プロダクトを増やしたりしていくときには、今のオペレーションを一度崩す必要があります。この「壊す」胆力は、会社組織としても担保することが大事だなと感じます。半年に1回行っている、全社への事業方針発表の場では、最近はそのことばかり言っています。「改善だけではなく、改革も必要だよね」って。

マネーフォワードとSmartHR、両社が重視するのは、変化を恐れず、スピード感を失わず、それでいて整合性を保ちながら、組織を進化させ続ける力だ。スタートアップの持続的成長を支えるのは、まさにこの「動的な組織づくり」に他ならない。外部環境の変化に合わせて、半年に1度組織をつくり直すマネーフォワードの取り組みは、先進的なベストプラクティスと言えるだろう。

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SaaSは依然、成長市場。SaaS同士のアライアンスは増加していく

最後に、今後の日本のSaaS業界の変化について、二人の想いを聞いた。共通しているのは、「SaaSは間違いなく今後も伸び続ける」という強い確信だ。

倉橋まだまだ日本はSaaS化率が低いです。依然として海外投資家から「なぜこんなにSaaS化率、DX化率が低いのか」と指摘されるほどです。ただここ数年、日本企業全体が本気でDXに取り組み始めているのを感じているので、SaaSにも追い風が吹いているなとは思います。余白が本当に大きいので、まだまだ10倍、100倍を目指せる感覚があります。

その中でも、SaaS企業同士の合従連衡はじわじわ進むと見込んでいます。SaaS市場の成熟度が上がってくると、大小さまざまなSaaSが生まれ、今以上にSaaS同士が結びつきあう場面も増えてくるでしょう。そのような流れを予測して、SmartHRはM&Aに力を入れていこうとしているので、マネーフォワードさんから勉強させてもらいたいなと思っています。

山田ソフトウェア市場の中でSaaSの割合が高まれば高まるほど、世の中はより良くなると思います。どうしてもオンプレミスのソフトウェアだと、例えば最新の生成AIが出たときにも、プロダクトの反映に数年を要してしまう。対してSaaSなら、リアルタイムでアップデートを行い、最先端のテクノロジーを機敏に取り込める。それは日本の生産性向上や経済成長を後押しする大きな原動力になり得ると思うんです。

倉橋SaaSの普及は確実に進むと思いますが、それが20年かかるのか、10年で達成できるのかは、私たち次第だと肝に銘じています。山田さんがおっしゃる通り、SaaSのビジネスモデルは社会にとって非常に有益ですよね。いま世界的にSaaSシフトの大波が起きていて、私たち両社の事業が順調に拡大しているのも、SaaSの将来性を裏付ける確かな証だと思います。

山田SaaSを導入していない企業がまだ存在するのは、私たち自身の努力不足に他なりません。リプレイスの手間やコスト、プロダクトの機能的な未成熟さ、ユーザー理解の不足など、課題は山積みです。お客様のニーズを徹底的に理解し、導入の障壁を一つずつ取り除く。そのための投資を惜しまず行うことが肝要だと考えています。

倉橋SaaSの社会実装は、3年や5年で成し遂げられるものではありません。裏を返せば、これから20~30年は持続的な成長が見込める市場だということです。そんな希有な機会に恵まれたことに感謝しつつ、「努力不足」という言葉を胸に刻んで、前進あるのみです。

マネーフォワードとSmartHR、国内SaaS業界を牽引する2社の戦略責任者による対談は、示唆に富む内容となった。事業戦略、組織マネジメント、リーダーシップなど、多岐にわたる議論からは、スタートアップの成長を加速させる数々の智慧が散りばめられていた。

SaaSのポテンシャルを最大限に引き出し、イノベーションを通じて社会を変革する。その熱い想いは、2人の言葉の端々から伝わってくる。日本のSaaS業界は、いま新たなステージに突入しようとしている。マネーフォワードとSmartHRという先駆者が、それぞれの個性を存分に発揮しながら、切磋琢磨し合う姿から目が離せない。

こちらの記事は2024年05月30日に公開しており、
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執筆

落合 真彩

写真

藤田 慎一郎

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