DXブームの水面下で進む、「本人確認」のデジタルシフト。
“デジタルにおける基本的人権”に取り組むTRUSTDOCK
スタートアップが社会変革を推し進めるうえで、必ずしも、誰もが驚くようなビジョンが必要なわけではない。取り組むべき現実的なソリューションを社会に実装し、成果を積み重ねていくイノベーションのかたちもある。
それはSFとしては、決して魅力的なストーリーではないかもしれない。しかし、にわかに「DX」がバズワード化している昨今、むしろそうした“HOW”のイノベーションに大きな注目が集まっていることも事実。着実な社会実装を進めるスタートアップの一社が、「本人確認」のデジタルシフトに取り組むTRUSTDOCKだ。
同社は、企業向けの本人確認API事業と、コンシューマー向けのデジタル身分証アプリ『TRUSTDOCK』事業を展開。500 StartupsやSTRIVEなどからの資金調達も実施済みで、スタートアップを中心にあらゆる業種・業態の企業が相次いで導入。NTTドコモや三菱UFJ銀行とのパートナーシップや、福岡市での実証実験も予定している。
「デジタルにおける基本的人権に影響する、社会インフラを構築している」という責任感に突き動かされる代表取締役/CEOの千葉孝浩氏に、「SF的な夢物語ではなく、半歩先の未来の実装」に懸ける想いを聞いた。
- TEXT BY MASAKI KOIKE
- PHOTO BY SHINICHIRO FUJITA
「本人確認」のデジタルシフトが重要な理由
世の中では、至るところで「本人確認」が行われている。
コンビニエンスストアで酒類を購入するとき、金融機関に口座を開設するとき……日々の暮らしで、免許証などの本人確認書類が必要なシーンは少なくない。法律で、取引や手続きにおける本人確認書類の提示が定められているからだ。
このように法律にもとづいて、企業が顧客の身元を確認するプロセスを「KYC(Know Your Customer)」と呼ぶ。あらゆるビジネスがオンライン化されていくのに伴い、KYCもデジタルシフトが求められるようになっている。
法改正も、KYCのオンライン化を後押ししている。たとえば、金融機関やクレジットカード事業者は、対面または郵送でのKYCが義務付けられていたが、今では法改正により、ネット完結が可能になっている。
とはいえ、まだまだ課題も大きい。オンラインでのKYC、すなわち「eKYC(electronic Know Your Customer)」が可能な業種・業態であっても、固有の法規制が存在するうえに、身分証撮影・容貌撮影・ICチップ読み取り・銀行照合、そして目視が必須だったり、条件も異なる。「とりあえず免許証の写真を送ればOK」といったシンプルな話ではないのだ。
煩雑な法規制があるKYC、eKYCにおいて、企業にかかる膨大な管理・オペレーションコストをデジタルシフトで乗り越える──この重要なイシューに取り組んでいるスタートアップが、TRUSTDOCKだ。
本人確認API/デジタル身分証アプリという二本柱
「本人確認のAPI商社」を謳うTRUSTDOCKは、KYCが必要な事業者向けにさまざまなAPIを構築している。企業の業種・業態によって必要性が異なるため、APIは個人身元確認・マイナンバー取得・リスク確認・郵送確認といった業務ごとに用意している。最新の法規制に鑑みて、企業ごとに必要なAPIを組み合わせて提供し、KYCプロセスを一気通貫で請け負っているのだ。
千葉これまで企業は、KYCプロセスを自社のCS組織で手がけてきました。その構築・維持にかかるコストは、重くのしかかる固定費となります。
今後、24時間365日使えるオンラインサービスが増えていく一方で、少子高齢化による労働力不足が進行していくと、ますます固定費はかさんでいくでしょう。また、CS組織はメンバーの評価が「減点式」で行われることが少なくないため、携わる人びとの心身も疲弊しがちです。
僕らは、企業のKYCに関連する業務を“すべて巻き取る”サービスを展開しています。個人身元確認やリスク確認など、個々の業務を手がけている事業者は数多くいますが、一気通貫で提供しているのは僕らだけ。SaaSやASPサービスのように、ツールを提供するだけではないんです。APIの利用量に応じてトランザクションフィーをいただくビジネスモデルなので、CS組織にかかっていた固定費も変動費化し、スリム化できます。
加えて、TRUSTDOCKのプロダクトにはもう一本の柱がある。コンシューマー向けのデジタル身分証アプリ『TRUSTDOCK』だ。toB向けの本人確認API事業と、安全に連携するtoC向けのデジタル身分証アプリの二本柱で、事業を展開している。
この身分証アプリは、ユーザーの「本人確認」体験を大幅にアップデートするポテンシャルを秘めている。『TRUSTDOCK』の専用JavaScriptが貼られているWebサービスやアプリでは、ユーザーが本人確認プロセスを求められた際、身分証撮影やICチップの読み取り、顔かたちの撮影をアプリ内で完結できる。全プロセスは、アプリのインストールも含めておよそ2〜3分で完了。
アプリ内のプロセスは、事業者側の法定要件を満たせるよう、緻密に設計されている。たとえば、その場で撮影した証明を示さないと法定要件を満たさない場合は、身分証をその都度撮影して送信。さらに、ユーザーにランダムな動きを指示するランダムジェスチャーの機能もある。
デジタルにおける基本的人権を揺るがす、インフラ企業としての責務
千葉氏はTRUSTDOCKの事業に「社会インフラとしての責務を感じている」という。TRUSTDOCKのAPIが止まると、自社サービスを止めざるを得なくなる事業者も少なくない。だからこそ、電気・ガス・水道のように「サステナブルにサービスを提供し続けられることが非常に重要」と語る。
千葉誤解を恐れずに言えば、「いかに早期に売上を増やせるか」という短期的なゲームを戦っている感覚はありません。KYC業務をどれだけ効率化できたか、導入企業の労働集約的な業務をどれだけ解放できたか。それを第一に考えているんです。
経済産業省の研究会に参加し、業種・業態に応じたオンラインの身元確認の要件定義について議論したり、新しい認証技術を普及・啓蒙する業界団体のOpenID FoundationでKYCデータの流通の規格化・標準化に取り組むなど、業界のスタンダードをつくりにいく動きも積極的に行っています。
事業者ごとに別々の規格をつくり、それぞれのベンダーが障壁をつくり、自社のみのグロースを志向しているだけでは、人が機械に合わせていた昭和や平成の世界と何も変わらない。DXなんて、永遠に成し得ません。みんなで手を取り合って共通化・標準化に取り組む必要があります。
自社だけではなく、公益に資する視点を大切にする千葉氏。それには、TRUSTDOCKの事業が「デジタルにおける基本的人権」に影響を与えることも関係している。「個人情報」を扱う事業は「100年後の悲劇」をも招き得ると、千葉氏は言う。その「慎重さ」は、インターネットサービスを提供する事業家であれば、誰もが持つべきスタンスにも思える。
千葉僕からすれば、まだまだインターネットは黎明期。いくら誠実にサービスをつくっていても、たとえばひ孫の世代になったら、悪意ある使われ方をしてしまう可能性もある。たとえば経営者が交代したケースなどを想定し、誰が取り扱っても危険が生じないよう、プロダクトやシステムを提供する側は慎重に議論を重ねて、サービスを設計する必要があるんです。
だから僕らTRUSTDOCKは、100年先の未来も踏まえたうえでビジネスを展開しています。個人情報が未来永劫、変なかたちで残り続けたら、常に行動が監視され、評価され続けるディストピアが到来するのではないでしょうか。無自覚に冤罪を増やしてしまう危険もあります。たとえば、「とりあえず利用規約にチェックはされているから、個人データを流用してOK」といったスタンスが、現在の法的に問題がないとしても、道徳的に、倫理的にどこまで許されるのでしょうか。
目の前の課題に対して耳触りの良いソリューションを提供しているだけでは、100年後の悲劇を招く可能性がある。昨今はGAFAをはじめとしたプラットフォーマーへの規制が強まり、「デジタルタトゥー問題」や「忘れられる権利」についての議論も盛んになりつつあります。
これらは、デジタルにおける基本的人権の話だと思うんです。僕ら提供側が決めた仕様やルールが、未来の人権意識に大きな影響を与える可能性がある。この自覚ができていない人は、本来、KYCの分野に取り組むべきではない。少なくとも僕らは、生活者自身に誠実でありたい。
理想像をSFで終わらせないために。「半歩先の未来の実装」の重要性
大きな責任感を胸に事業を推進する千葉氏だが、もとからKYCに関心を持っていたわけではないという。TRUSTDOCK創業前は、ガイアックスでPMや新規事業開発を担当。複数の事業立ち上げに携わった後、2015年、とある研究開発プロジェクトにアサインされる。
そのプロジェクトのテーマは、「オンライン上の本人確認の効率化」だった。ガイアックスの注力事業の一つに、CtoCのシェアリングサービスがある。見ず知らずの他人同士で取引が行われるため、本人確認の有無が安心感につながり、マッチングの成約率に与える影響も大きい。
ただ、シェアリングサービスでは清掃やタクシーの相乗り、カメラのレンタルといった小規模な商取引がなされることが多く、取引のたびにKYCプロセスが挟まれると、ユーザーの体験は損なわれ、プラットフォーム側のコストも見合わない。この課題を解消すべく、オンラインで完結する、簡易な本人確認のあり方を研究するプロジェクトが立ち上がったのだ。
プロジェクトの初期は、ブロックチェーン技術にフォーカスが当てられた。仮想通貨バブル前夜で、注目を集めはじめていた時期だった。しかし、プロトタイプの開発や実証実験を進めるうちに、もともと想定していなかった、意外な業界からの問い合わせが多いことに気がついたという。
千葉金融業界からのお問い合わせが、予想以上にたくさん来ていたんです。気になってヒアリングを進めると、ちょうどフィンテックブームも一段落し、現実的なテクノロジー活用が模索されていく過程で、KYCの煩雑さに課題意識を持ちはじめた事業者が多いと分かりました。
KYCの煩雑さは、デジタル化がある程度進んだ段階で、ようやくイシューとして浮上してくる。いわば“二周目”の課題なんです。だからこそ、フィンテックのみならず、今後デジタルシフトが進んでいくあらゆる業界で大きな課題になる──そのポテンシャルの大きさを直感し、KYCのデジタルシフトに取り組むことを決めました。
「研究開発プロジェクトや一事業部で取り組むレベルのイシューではない」と判断した千葉氏は、2018年4月にガイアックスからカーブアウトするかたちで、TRUSTDOCKとして独立。ユーザーヒアリングを繰り返しながら、まずはフィンテック業界においてリーンにプロダクトを開発していった。
小さく開発し、マーケットニーズを見ながらボトムアップでサービスを磨き込んでいく──自身の開発スタイルを、千葉氏は「半歩先の未来の実装」と表現する。
千葉一足飛びに、SF的な夢物語にならないように注意しているんです。大きく社会を変えていくには、アーリーアダプターにしか理解してもらえないような理想を掲げるだけでは不十分。社会のコンセンサスを取れるギリギリのレベル、半歩先の未来を実装していくスタンスが、ちょうどいいと思っています。
今まで、いきなり大きな絵だけを描いて成功したケースって、稀ではないでしょうか。はっきり言って、理想の未来社会を描くだけなら高校生でもできます。ドヤ顔で出した理想像が、すでに100年前に構想されていた、なんてケースもざらです。総論、理想の仕上がりはみんなが同意済みで、既出のものなんですよ。
結局、最も難しいのは「どう実現するか?」という“HOW”の部分なんです。現状の法律や規制、社会の問題点を嘆いて青写真を描くだけでなく、ちゃんと現場に降りてきて、既存の社会システムでも認められるギリギリのラインのソリューションを実装する。そうして一歩ずつ、理想像に近づけていく。亀の歩みかもしれませんが、本当に社会を変えるには、こうするしかないんですよ。この領域では僕ら以外に、真の意味で汗をかいて取り組んでいる人はほとんどいません。
「免許証、パスポート、住民票……そしてTRUSTDOCK」の未来へ
「半歩先の未来の実装」を続けてきたTRUSTDOCK。保険をはじめとする金融はもちろん、HRや行政まで、デジタル化に伴い本人確認プロセスが必須となるあらゆるマーケットを睨む。
スキマバイトアプリ『Taimee』や給与前払いの『Payme』、報酬先払いの『yup』にレシート買い取りの『ONE』といったスタートアップをはじめ、AIクラウドIP電話の『MiiTel』や定額制の多拠点コリビング『ADDress』のようにコロナ禍でますます注目を集めるサービス、さらには海外送金の『TransferWise』やクラウドAPIの『Twilio(トゥイリオ)』といった海外ユニコーン企業まで、業種業態を問わず、同社APIを相次いで導入。500 StartupsやSTRIVE、メガバンクのCVCなど、複数社からの資金調達も実施済みだ。
2020年4月にはNTTドコモ、同6月には三菱UFJ銀行と業務提携し、さらに同7月には福岡市実証実験プロジェクトのパートナー企業として採択された。今後は海外進出も本格化させていく予定だという。
事業を拡大していく際に最大の武器となるのは、法律、テクノロジー、業務オペレーションに明るいメンバーたちの存在だ。法律相談所でも、開発会社でも、オペレーション代行会社でもない。現場のオペレーションで発生した課題を、最新の法律事情に鑑みて、適切なテクノロジーを活用して解決していく。とりわけ法律理解は、TRUSTDOCKのような、法規制が厳しいドメインの事業者にとって、きわめて重要性が高い。関連法の制定・施行・改正スケジュールを確認するのは、メンバーの日課になっているそうだ。
千葉今後も引き続き、KYC・デジタルアイデンティティ領域で、ありとあらゆるAPIやソリューションを提供するために、必要な“HOW”を淡々と取り揃えていきます。そして僕らは、デジタルにおける身分証のような存在になりたいです。免許証、パスポート、住民票……こうした本人確認書類と並列でTRUSTDOCKのプロダクトがある社会を創りたいんです。そこに向けて、地道に汗をかき、半歩先の未来を実装し続けていきます。
こちらの記事は2020年08月05日に公開しており、
記載されている情報が現在と異なる場合がございます。
執筆
小池 真幸
編集者・ライター(モメンタム・ホース所属)。『CAIXA』副編集長、『FastGrow』編集パートナー、グロービス・キャピタル・パートナーズ編集パートナーなど。 関心領域:イノベーション論、メディア論、情報社会論、アカデミズム論、政治思想、社会思想などを行き来。
写真
藤田 慎一郎
1986年生まれ、東京都武蔵野市出身。日本大学芸術学部文芸学科卒。 「ライフハッカー[日本版]」副編集長、「北欧、暮らしの道具店」を経て、2016年よりフリーランスに転向。 ライター/エディターとして、執筆、編集、企画、メディア運営、モデレーター、音声配信など活動中。
校正/校閲者。PC雑誌ライター、新聞記者を経てフリーランスの校正者に。これまでに、ビジネス書からアーティスト本まで硬軟織り交ぜた書籍、雑誌、Webメディアなどノンフィクションを中心に活動。文芸校閲に興味あり。名古屋在住。
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