連載事業家の条件
“高過ぎる受注率”を経営判断で実現。
すぐ売れるSaaSを創った「事業会社に敢えて売らない戦略」とは
世界を変える事業家の条件とは何だろうか──。
この問いの答えを探すべく、連載「事業家の条件」が立ち上がった。数々の急成長スタートアップに投資してきたXTech Ventures代表パートナー・手嶋浩己氏が、注目する事業家たちをゲストに招き、投資家の目から「イノベーションを生み出せる事業家の条件」を探っていく。
二項対立で語られがちな、「バーティカルSaaS」と「ホリゾンタルSaaS」。あなたも、ユーザーの業種を問わないホリゾンタルSaaSのほうがマーケットが大きいと感じるかもしれない。しかし昨今、ベンチャーキャピタリストは口を揃えて「これから注目すべきはバーティカルSaaSだ」と語る。そんな「バーティカルSaaS」の世界でもひときわニッチに思える「社会保険労務士(以下、社労士)向けのプロダクト」を開発し、この2021年4月に総額3億円の資金調達を実施した企業がある。
その名はKiteRa(キテラ)。2019年より社労士が社内規程を効率的に作成・管理できるサービス『KiteRa』を展開している。「ひと目見たときからすごい会社だと思った」と太鼓判を押すのが、この調達ラウンドに参加した投資家の一人であるXTech Venturesの手嶋氏だ。
なぜ「社労士向けSaaS」に注目すべきなのか。その理由は、非常に高い受注率を産んだ要因・戦略にある。また、バーティカルでありながら、ホリゾンタルに拡大していくポテンシャルをも秘めている。他のSaaSカンパニーにはない独特の軌跡を、KiteRa代表取締役CEOの植松隆史氏と手嶋氏の対談から読み解きたい。
- TEXT BY ICHIMOTO MAI
- PHOTO BY SHINICHIRO FUJITA
「社労士に刺さりまくるSaaS」が驚きのトラクションを
手嶋すごい会社になりそうだと思いました。イベント開始前に配られた資料にざっと目を通した段階で、16社中最も成長可能性があるのはKiteRaだと思ったんです。
手嶋氏とKiteRaの出会いは、2020年秋に開催された「Incubate Camp 13th」。ベンチャーキャピタルのインキュベイトファンドが主催する、投資家と起業家のマッチングを行う合宿プログラムだ。植松氏は、厳しい選考を通過した起業家の一人としてそこにいた。
KiteRaにオファーするのは、少々手堅すぎるかもしれない──。
植松氏のプレゼンテーションを見た手嶋氏は、そう考えていた。他の投資家も同じようにKiteRaに魅力を感じていると思ったからだ。オファーが殺到すれば、マッチングできない可能性もある。それでも手嶋氏は、KiteRaへのオファーを申し出た。ところが周囲を見渡すと、自分と同じようにKiteRaに手を挙げた投資家は、一人もいなかったのだ。
しかしその翌日、手嶋氏のアドバイスを受けて資料を修正し、2回目のプレゼンに臨むと、手嶋氏の予想通り、多くの投資家がKiteRaの可能性を認めて植松氏のもとに集まった。
他の投資家は、初見でその可能性を見抜けなかった。それにもかかわらず、手嶋氏が確信を持って見出したKiteRaとは、一体どんな事業を展開しているのだろう?
植松『KiteRa』は、社会保険労務士の専門的な業務を効率化するクラウドサービスです。就業規則や規程類の作成、編集、管理、顧問先への共有といった社労士の業務を効率化します。
社労士は今まで、本質的でない業務に多くの時間を取られてしまっていました。就業規則といった規程を作成する際、「条ズレ」の有無の確認やインデントの調整、送り仮名の統一などの細かな作業が発生していたのです。また、作成した規程を顧問先企業とワードファイルでやりとりするうちに、「どれが最新版かわからなくなる」といったトラブルが頻発していました。
『KiteRa』は、文章の調整やバージョン管理をひとつのプラットフォーム上で行えるようにして、社労士自身の業務や、顧問先企業の労務担当の業務負担を大幅に削減します。
確かに、規程の作成や管理などの専門的業務に携わる人にとってはありがたいサービスだろう。しかし、「社労士向けSaaS」のマーケットはかなりニッチにも思われる。手嶋氏がKiteRaを「すごい会社だ」と思った理由はどこにあるのか。
手嶋正直、見出したというか、たまたまその数字が目についたというだけとも言えますが……(笑)。目立ってはいなかったものの、小さく載っていたんです、ものすごく高い「受注率」や他の際立った数値情報が。これを見て、もうあとはとにかくリードを作り営業すればある程度伸びていくだろうと推測できたわけです。SaaS事業ですから、予測は立てやすい。
ですが、植松さんはそれをアピールに足る要素だと認識していなかったようで。自分以外の投資家がKiteRaにすぐ食い付かなかったのは、おそらくそのためです。ここを目立たせるだけの修正で、グッと良いプレゼンにすることもできました。
とはいえ、あくまで「社労士向け」のプロダクトである。投資家として、プロダクトのポテンシャルやスケールの見込み、エグジットの規模などに不安はなかったのだろうか。
手嶋まず、僕は社労士の仕事をしたことはありませんが、経営者としては規程を見ていたので、規程を扱う人の業務内容やペインは想像がつきました。
そして、後で社労士業界の市場規模を聞くと、想像よりかなり大きかった。直感だけでなく数値情報も加味して総合的に判断した結果、「最悪でもこのぐらいは伸びるだろう」という良い感覚を持てたんです。だから「Incubate Camp」終了後すぐ、本格的に投資の検討を始めさせてもらいました。
医師、弁護士、社労士…増加する「専門家起業」の落とし穴と強さ
さて、そんな高い受注率を誇る、つまりプロの社労士から引っ張りダコとなっているプロダクトの魅力は、一体どのようなものなのだろうか。専門的な文章の作成を効率化するツールなら『KiteRa』の他にも存在しそうなもの。植松氏もこのことは否定せず、その上で、社労士業務に特化したものでない限り、直接の競合にはあたらないのだと語る。
植松社労士が作る規程には、他の文書には見られない独特のルールがあります。例えば就業規則は一度作ったら終わりではなく、版数を重ねていくのが特徴です。法律改正のたびに第二版、第三版…と、ある種“秘伝のタレ”のように継ぎ足しながら文章が引き継がれていきます。
一方、一般的な契約書で、締結後に内容が変更になるケースはほとんどありません。扱う文章によって必要なサポートは大きく異なるので、他のドキュメントソリューションのツールで『KiteRa』の提供するサービス範囲はカバーできないのです。
社労士の業務に精通しているのは、植松氏自身が社労士として、計約15年間人事労務に携わってきた経験があるからだ。手嶋氏は、「社労士出身」という植松氏のユニークな経歴をポジティブに受け止めていた。
手嶋最近は医者や弁護士が起業する事例は増えてきましたが、社労士の起業家はまだ見たことがありませんでした。業務を深く理解している人がつくるサービスなら、外野から簡単に真似られません。社労士出身の起業家が少ないということは、競争が激しくならない可能性が高いと考えました。
そんな植松氏の『KiteRa』というプロダクトの構想には、もちろん自身の社労士としての経験が大きく影響している。
植松きっかけは、前職で勤務社労士として進めたIPO準備です。内部統制上必要とされる規程を揃えるために、社内に5~6個しかなかった規程を一気に40個ぐらいにまで増やす作業が発生して……。改行や数字の更新など、細かな調整に時間がかかり過ぎて、あまりに無駄が多いと感じたんです。
そして同時に、この悩みは多くの企業が抱えているはずだと思いました。労働基準法では、常時10人以上が働いている会社は就業規則を設けることが定められています。ほとんどの会社に規程があるならば、規程管理を効率化するビジネスのマーケットはものすごく裾野が広いのではないかと思いました。
社労士だからこそニーズを発見できたとはいえ、“社労士起業家”の前例がほとんどないことは、起業をためらう理由にはならなかったのだろうか?
植松実は前職の会社にいるうちに、社内でこのサービスを新規事業としてつくり始めていました。結局、私がスピンアウトして開発を継続することになったのですが、そのときから、「これは世の中に広めていけるものだ」という自信がどこかしらあったんです。
穏やかな口調の中に、秘めた意思の強さが滲んでいる。手嶋氏は専門家の起業について、メリットと覚悟が必要な部分の両方があると語った。
手嶋専門家起業の明確な強みとは、ユーザー目線を自然と身につけていること。不便さをリアリティを持って理解できるのは、プロダクトを開発する上で何よりの武器です。営業する際に相手の考えていることが手に取るようにわかるので、セールストークもやりやすいはずです。
注意すべきなのは、そもそも専門家と起業家は真逆の仕事だということ。専門家は一つの知識を突き詰める一方、起業家は幅広い領域をそこそこ理解しなければならないスーパージェネラリストです。専門家が起業すると、一定のアンラーニングは必要になるでしょうね。
資金調達で重要な「会うべき時期」とは
「元社労士」の強みは確かにあるとはいえ、業種特化型SaaSの魅力は投資家になかなか伝わらない。調達は苦労の連続だった。
植松最初の頃は私たちもうまく説明できていなくて、投資家から出された宿題の回答に追われていました。並行してピッチイベントにも出ていましたが、結果はついて来ず。ところが、「もうこれで最後にしよう」と思って出たイベントで、運よく自分たちを理解してくれるシード投資家と知り合えたんです。
その出会いが、2019年4月の最初の調達につながった。植松氏は当時の投資家全員に感謝の意を示しつつ、特に印象的だったライフタイムベンチャーズの木村亮介氏との出会いについて次のように振り返る。
植松木村さんは、それまでに出会ったどの投資家とも違っていました。私たちに宿題を出すのではなく、『こうやれば可能性が見えてくるからこんな風に進めればいいよ』と、ホワイトボードに考えをまとめながら自分で答えを出しちゃうんです。しかも、ピッチしたその日の午後の面談で「投資する」と言っていただけて。決まるまで、ものすごく早かったですね。本当にいい出会いは、結果に繋がるまでの時間が短いんだと知りました。
植松氏が手嶋氏と出会ったのは、それから約1年後のこと。冒頭で触れた「Incubate Camp 13th」でプレゼンテーションのアドバイスを受けてから、調達はさらに順調に進むようになった。
「もっと早く手嶋さんと出会っていれば、こんなに苦労はしなかったかもしれません」と話す植松氏に、手嶋氏は笑顔でこう返した。
手嶋出会う時期は適切だったと思いますよ。僕たちが投資をすぐに決められたのは、事業が0.5から1のフェーズへと進みかけているトラクションを認めたから。投資家によってステージは違うので、植松さんは結果的に、会うべき人に会うべき時期で出会えているのだと思います。
では、「会うべき人に会うべき時期に会う」ために必要なことは何なのか?と聞くと、2人はきっぱり答えるのだった。
手嶋やっぱりそこは、とにかく会いまくるしかないでしょうね。一見遠回りだとしても。近道はないと思います。
植松実際にやってみて、私もそう思いますね。確かに、調達につながらなかった出会いもありますが、その中で学んだことも多くあります。追うべきKPIの設計、チームの作り方、CEOとしての心構えなど事業成長に必要なアドバイスを多くの投資家からいただきました。それは今でも経営の意思決定に参考になっています。私にとって貴重な財産です。
遠回りに見えた道のりも、実は必然だった──。調達の壁を乗り越えた今、植松氏は事業の拡大フェーズへとその足を進めている。
早めのCxO陣採用は投資家の大きな評価に
現在の『KiteRa』は社労士事務所や社労士法人にサービス対象を限定しているが、2019年4月のローンチ時は事業会社にも提供していた。実際、事業会社の労務担当者からのニーズは少なくなかったのだ。しかし植松氏は、事業会社の希望する機能を開発することで顧客の裾野や大口契約を増やすことを狙うのではなく、サービスを提供する顧客をあえて社労士のみに絞る判断を下した。
植松事業会社のニーズに合わせようとすると、新たに開発しなければならない機能が増えすぎてしまう、という悩みがありました。例えば、他のアカウントからのログインを可能にするSSO(シングルサインオン)は、複数のシステムにアクセスする大企業の社員には便利ですが、小人数で運営されているケースの多い社労士事務所にはそれほど重要な機能ではありません。
開発効率を考え、社労士向けに一旦振り切ろうという判断をしたんです。書類の自動補正といった重要なペインに応える機能へのニーズは、事業会社よりも社労士からの方が求める水準が高い。こちらに合わせて開発することで、長期的に広く価値を提供できるプロダクトになっていく、そんな狙いがありました。
植松氏の経営判断が奏功し、『KiteRa』を導入する社労士事務所は現在400社に迫るまで広がっている。
特に営業効率の高さは特筆に値する。前述の通り、『KiteRa』の受注率は一般のSaaSよりも高水準にある上、実は導入に至るまでの意思決定の時間も非常に短い。少人数運営の社労士法人が対象ということもあり、ウェビナー参加から2~3日で導入に至るケースも少なくないという。
「営業がスムーズなのは、自身が社労士だという安心感に加えて、潜在的なニーズを満たすサービスである点が大きい」と植松氏。社労士からは「やっとこういうプロダクトができたんだ」という声を頻繁に聞くそうだ。
さらに注目したいのが、経営チームの布陣。創業3年目で20人ほどの規模ながら、経験豊富なCxOが揃う。共同代表のCOO藤田智人氏は新卒入社先のSIerでプロジェクトリーダーや新規事業立ち上げを担った後、東証一部企業2社でもプロジェクトやプロダクトのリーダーとして事業を牽引。CRO伊藤久之氏はJTBで新規事業に携わったほか、カオナビとABEJAにてSaaS事業のグロースを担った経験を持つ。CTO松村竜次氏は自ら起業したことがある上、東証一部上場企業やシリコンバレーのスタートアップAppSociallyなど、さまざまな組織で働いてきた人物だ。
このように、スタートアップから一部上場企業まで、さまざまな文化や規模の組織で経験を積んだをメンバーが経営陣に集まっているのだ。創業者が一人で走り続けてしまうケースも見られる中、手嶋氏は「このフェーズでこれだけのメンバーが揃っている企業は珍しい」と言う。
手嶋スタートアップにしては年齢が高く、バックグラウンドが多様で経験豊富な人が集まっています。一言で言うと「大人の経営チーム」ですね。コツコツした努力が求められるSaaSという業態にも合っているのではないでしょうか。
今の経営体制なら、100人規模の組織をつくれるイメージが湧きますね。拡大の過程でさまざまな課題は出てくると思いますが、植松さんたちの前職でのマネジメント経験はきっとこれから活かされてくるのではないかと思います。
メンバー倍増、ホリゾンタル化……野望は広がる
社労士出身の代表の会社というだけあって、働きやすさが徹底されているのは想像通りだ。
植松目立つことをしているわけではありませんが、時間や場所に縛られずに働けますし、残業は抑制方針です。オープンな議論ができるように、財務諸表の数値といった経営情報は社内でほとんど開示しています。
手嶋これだけ経営陣が大人なら、バランスを欠いて組織崩壊するようなことはないと思いますよね。社会人経験が浅い人や、性格的に調和型ではない人が経営者の場合は、僕らも従業員の様子が気になりますが、『KiteRa』はそうではありません。最初から安心していたので、『KiteRa』の働き方に関する取り組みは僕も今初めて聞きました(笑)。
組織の骨組みが定まりつつある中、植松氏はここから一年間で会社規模を一気に拡大する狙いだ。1年後には今の倍以上となる40人の体制を目指している。そして社労士事務所向けの提供だけではなく、事業会社向けにもプロダクトを本格展開していく構想も温めている。いわばバーティカルSaaSから、ホリゾンタルSaaSへの脱皮だ。マーケットは一気に広がる。
メンバーに求めているものを植松氏に聞くと、「規程を触ったことがなくても、SaaSビジネスに携わった経験がなくても構わない」と話した。
植松一番大切なのは「安心して働ける世界を作る」というミッションへの共感です。働き方の多様化、就業形態の複雑化が進む中、どんな働き方やパーソナリティでも安心して働ける職場・環境をつくりたい。その想いをまずは共有したいですね。
その上で、今までにないサービスを世の中に提供することに情熱を注げる方を歓迎します。チームでベクトルを合わせ、パイオニアとして市場を切り開いていけるバイタリティのある方と一緒に働きたいです。
思いをまっすぐに伝える植松氏を見て、手嶋氏はこう呟いた。
手嶋植松さんにあるのは、かっこいい言葉でうまくまとめない良さですよ。実際に会ってみると、安心感のある人柄に惹かれる人は多いと思います。僕もその一人ですから。
この飾り気のない率直さが、植松氏の魅力なのだろう。彼の人望に比例するように、KiteRaの規模は拡大する。規程管理に悩める人事・労務のエキスパートたちをKiteRaが救う日は近い。
こちらの記事は2021年05月21日に公開しており、
記載されている情報が現在と異なる場合がございます。
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連載事業家の条件
フリーライター。1987年生まれ。東京都在住。一橋大学社会学部卒業後、メガバンク、総合PR会社などを経て2019年3月よりフリーランス。関心はビジネス全般、キャリア、ジェンダー、多様性、生きづらさ、サステナビリティなど。
写真
藤田 慎一郎
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